鍼灸エビデンス・ライブラリ
艾と熱源の科学(全2分冊) 上巻 艾は何でできていて、何を捨てているのか 姉妹巻:温度曲線
Moxa Material — もぐさの特性・全10章

もぐさの特性

艾は葉ではない。葉から特定の部分だけを取り出したものである。
何を取り出し、何を捨て、燃やすと何が煙に出るのか。

第1版 2026年8月 ヨモギの毛茸 / 精製 / 寝かせる年数 / 日本のモグサ製造 / 品質評価 / 煙の成分
序章

もぐさという材料を見る

本ライブラリの既刊は、灸を受けた身体で何が起きるかを扱ってきた。本書は視点を反転させ、灸そのものだけを扱う二分冊の上巻である。ここでは艾という材料——何を燃やしているのか、精製で何を捨てているのか、燃やすと煙に何が出るのか——を扱う。温度と燃焼と放射は『温度曲線』に送る。身体の反応は既刊に送る。

00本書の読み方と、温度データの読み方

灸の温度を扱う文献を読むとき、最初に確認すべきは温度の数値ではない。どこに何を置いて測ったかである。ここを飛ばすと、同じ灸について何度でも矛盾した数字を集めることになる。

0-1 本書を貫く四つの問い

  1. もぐさは何でできていて、精製で何が減るのか。
  2. 燃えているとき、温度は時間とともにどんな形を描くのか。
  3. その形は、灸の種類によってどう違うのか。
  4. 煙には何が含まれ、それは施術環境でどれだけの濃度になるのか。
本書が「示唆」を書くときの規約

本書は原著の報告値だけで構成する。報告値を超えて編者が可能性を述べる箇所は、1冊につき2件までとし、いずれも「考察」「臨床仮説」等のラベルを付けた囲みの中に置き、成立しない条件を併記する。囲みの外の本文に、報告されていない因果や機序を書かない。ラベルのない断定は、すべて原著の報告値か、原著の著者自身の結論である。

0-2 エビデンスの階層

本書が扱うのは大半が物理・化学の測定値であり、臨床試験ではない。それでも階層は付す。測定値にも、一般化してよい範囲がある。

表0-1 本書で用いるエビデンス階層
階層デザイン典型的な弱点
A盲検化RCT/Cochraneレビュー本書では第III部の一部でのみ登場する
B器機による物理・化学測定(温度・分光・クロマトグラフィ)測定条件が研究ごとに異なり、直接比較できないことが多い
C動物実験・生体模擬モデルヒトの皮膚とは熱物性が異なる
D単群測定・比較対照のない報告再現性が確認されていない
E非査読資料・製品資料本書では数値引用に用いない

0-3 温度データを読むときの四つの確認

1. センサをどこに置いたか
艾の内部か、艾の底面か、皮膚表面か、模擬生体の表面か、皮下か。これが違えば温度は桁で変わる。『温度曲線』第6章では、1本の艾条の断面内だけで 400℃ を超える差が報告されている。
2. 何の上で燃やしたか
石綿板の上か、模擬生体の上か、ヒトの皮膚の上か。下にあるものが熱をどれだけ吸うかで、同じ艾でも記録される温度は変わる。『温度曲線』第2章で具体例を示す。
3. サンプリング間隔と試行回数
ピーク温度は一瞬である。サンプリングが粗ければピークを取り逃す。本書が引用する日本の測定では、0.55秒 間隔で 600秒 間、各条件 6回 という条件が明示されている[6]
4. 最高温度か、曲線の形か
最高温度だけを比べると灸種は一列に並ぶ。しかし患者が受け取る刺激を決めているのは、立ち上がりの速さ・ピークの持続・裾の長さ、すなわち曲線の形である。『温度曲線』第10章がこの点を扱う。
読み方の注意

本書には、原著の抄録にしか到達できず数値を引用していない文献が複数ある。該当箇所ではその旨を明記した。「引用しなかった」ことも情報である。『温度曲線』第13章に一覧を掲げる。

図0-1 本書に登場する温度の実測値(対数目盛・℃)
20 30 50 100 300 500 1000 台座灸・試料A(簡易生体モデル最表面) 26.71 ℃ 棒灸・高さ100 mm 30.1 ℃ 偽灸の皮膚温(膝OA試験) 40.9 ℃ 実灸の皮膚温(膝OA試験) 49.8 ℃ 棒灸・高さ20 mm 51.2 ℃ 台座灸 55.9 ℃ 温筒灸 64.3 ℃ 米粒大艾炷の底面 140〜160 ℃ 艾の着火温度(3年) 218.3 ℃ 最大質量減少速度の温度(3年) 318.8 ℃ 燃焼中の艾条・外側 410 ℃ 燃焼中の艾条・中心 843 ℃
数値はすべて原著の報告値。横軸は対数目盛。棒の長さは対数目盛上の位置を示すためのものであり、熱量や刺激量を表さない。各行は測定点が異なる。上から順に、簡易生体モデルの最表面[7]、臨床試験で実測された皮膚温[17]、熱電対による灸の温度特性[6]、石綿板上の艾炷底面[4]、熱重量分析による燃焼パラメータ[3]、燃焼中の艾条内部[5]この図を縦に読んで灸種の強さを順位づけることはできない。米粒大艾炷の行のみ、原著が範囲(140〜160℃)で報告しているため中央の150℃の位置に置いた。

0-4 既刊との関係

灸の熱が身体でどう受容され何を起こすかは、既刊『灸と神経生理学』『灸と痛みの生理学』『灸と血流の生理学』で扱った。本書は熱源の側で完結する。

0-5 本書が扱わないこと

  • 商品名・銘柄・価格・購入先。本書は特定の製品にいっさい言及しない。試料の産地や精製比は、原著が記載している範囲でのみ記す。
  • 身体側の反応(受容体・血流・鎮痛)。既刊に送る。
  • 煙の曝露による健康影響の疫学。本書は煙に何がどれだけ含まれるかまでを扱う。
第I部

もぐさの成分分析

艾は葉ではない。葉から特定の部分だけを取り出したものである。何を取り出し、何を捨てているのかを、物質収支として確かめる。

01ヨモギの毛茸——艾になる部分はどこか

艾の原料となるのは葉の表面に生えている毛(毛茸、トリコーム)である。この毛は一種類ではない。分泌する毛と分泌しない毛があり、化学的な役割が異なる。

1-1 三種類の毛茸

Cuiら(2022年)は Artemisia argyi(ヨモギ属のカラヨモギ)の毛茸を形態・超微形態・化学の三面から記載した[1]。報告されたのは、2種類の分泌毛(腺毛)と1種類の非分泌毛である。

表1-1 Artemisia argyi の毛茸[1]
種類成熟時の細胞数発生段階
分泌毛(第1型)10細胞5段階
分泌毛(第2型)5細胞5段階
非分泌毛4〜6細胞4段階

第1型の分泌毛ではクチクラと細胞壁の間に大きな貯蔵腔が観察され、第2型の細胞には大きな核・核小体・ミトコンドリアが認められた[1]。分泌毛から化学分析で検出されたのはモノテルペン1種とフラボノイド7種であり、著者らはこれらの毛茸を「生理活性代謝物の産生の鍵となる組織」と位置づけている[1]

1-2 艾になるのはどの毛か

ここで注意が必要である。艾の綿状の実体をなすのは、主として非分泌毛である。一方、香りと薬理成分を担うのは分泌毛である。すなわち「よく燃える繊維」と「成分の入った袋」は、葉の上で別々の構造として存在している。

本書の限界

Cuiら[1]は毛茸そのものを記載した研究であり、精製後の艾に各型の毛茸がどの比率で残るかを定量した研究には、本書の調査範囲では到達できなかった。「艾は非分泌毛が主体である」という一般的な理解と、次章で見る成分の減少は方向として整合するが、両者を同一研究内で結んだデータは見出せなかった。

臨床への翻訳

この構造が意味するのは、艾の「燃える性能」と「成分の量」は、同じ材料の中で別々の担い手を持つということである。したがって「良い艾=成分が豊富な艾」という等式は、少なくとも自明ではない。次章の物質収支で、この直感は逆向きに裏切られる。

02精製とは何を捨てる工程か

精製度を上げるとは、原料の葉を多く使って少量の艾を得ることである。では、その過程で何が残り、何が捨てられているのか。定量した研究がある。

2-1 精製比という指標

Liら(2019年)は、生葉と艾の重量比が 1:15:110:115:1 の艾を作り、UPLC-DAD でフェノール酸6種とフラボノイド3種の計9成分を定量した[2]。精製比とは「出発材料(乾燥ヨモギ葉)の重量と完成品の重量の比」である[3]

2-2 生葉に含まれていた量

表2-1 新鮮な Artemisiae argyi Folium(生葉)の含有量[2]
成分含有量
クロロゲン酸45.76 μg/g
イソクロロゲン酸C33.38 μg/g
イソクロロゲン酸A22.84 μg/g
イソクロロゲン酸B14.55 μg/g
クリプトクロロゲン酸11.31 μg/g
ルチン8.956 μg/g

2-3 精製で何が起きたか

精製比を 1:1 から 15:1 へ上げたとき、親水性化合物は 58.67〜84.06% 減少した[2]。著者らの結論は明快である——「AAF/艾の比が高いほど、艾における親水性化合物の枯渇はより明白になる[2]。粉砕の工程が、親水性のフェノール酸とフラボノイドを優先的に除去しているというのが著者らの説明である[2]

臨床への翻訳

この物質収支が示すのは、精製とは、薬理成分を捨てて熱源としての性質を得る工程であるということである。精製度の高い艾を選ぶ判断は、「成分をより多く得るため」ではありえない。熱の出方を選んでいるのである。患者への説明でこの二つを混同すると、事実と逆のことを言うことになる。

この知見の範囲

Liら[2]が用いたのは中国産の Artemisia argyi であり、定量されたのは親水性の9成分に限られる。精油成分(テルペン類)がどう変化するかはこの研究の対象外である。また日本の艾の精製工程(篩と唐箕による分別)が同じ挙動を示すかは、本書の調査範囲では確認できなかった。著者ら自身も、採取時期・生育地・乾燥工程が含量に影響しうるとし、なかでも乾燥がもっとも重要な影響因子であると述べている[2]

03精製度の分類と日本の灸法

日本では、精製度の異なる艾が灸法ごとに使い分けられている。この使い分けは、第II部以降で見る温度曲線の違いと直結している。

3-1 研究で用いられた三分類

松本ら(2016年)は、日本で一般に用いられる3種類の艾を、精製の程度によって分類したうえで燃焼実験を行っている[12]。用いられたのは点灸用・灸頭鍼用・温灸用である。

この分類が意味するところは、第I部の物質収支と重ねると明確になる。精製度の高い艾ほど親水性成分が失われ[2]、繊維主体の材料に近づく。日本で直接灸(透熱灸)に高精製度の艾が用いられるのは、皮膚上で直接燃やすために燃焼特性を制御する必要があるからである、という説明と整合する。

本書が書かないこと

「精製度が高いほど最高温度が低い」という説明は広く行われている。しかし精製度と最高温度を同一の研究内で対応づけて定量した査読済み研究には、本書の調査範囲では到達できなかった。本書はこの因果を主張しない。『温度曲線』第13章の空白リストに掲げる。

04寝かせる年数で燃え方が変わる

艾を寝かせる年数が長いほどよいとされてきた。この経験則に対して、燃焼特性の側から測定した研究がある。結果は「良し悪し」ではなく、何が変わるかを示した。

4-1 実験の設計

Limら(2021年)は、市販の艾 6 試料——寝かせる年数 3年 のものが3試料、10年 のものが3試料——を熱重量分析(TGA)と熱分解GC/MS で調べた[3]。産地は済南(山東)・南陽(河南)・北京。窒素雰囲気下、試料 6 mg、室温から 1100℃ まで 10℃/分 で昇温している[3]

4-2 着火温度と燃焼のピーク温度

表4-1 寝かせる年数と燃焼パラメータ[3]
指標3年(平均)10年(平均)
着火温度218.3 ℃222.6 ℃
最大質量減少速度を示す温度318.8 ℃323.5 ℃

個別の試料では、着火温度は 217.2〜228.3℃、ピーク温度は 315.1〜326.4℃ の範囲にあった[3]。燃え尽き温度は 485.4〜492.0℃900℃ における残渣は 11.1〜26.1% であった[3]

4-3 もっとも重要な所見

著者らは、寝かせる年数が短い艾ほど最大質量減少速度が大きく、より低い反応温度で含窒素化合物と含酸素化合物の収率が高いと報告している[3]。そして——

原著の記述

寝かせる年数10年の試料では、揮発性成分は検出されなかった。[3]

熱分解生成物として同定されたのは単環芳香族炭化水素・多環芳香族炭化水素・ケトン・酸・アルカンであり、いずれも相対存在比は 5% 未満であった[3]。全6試料で検出された唯一の化合物はフェノール(相対存在比 0.343〜2.363%)である[3]

4-4 艾は着火しやすい

著者らは、艾の着火温度(218.3〜222.6℃)が他の草本系バイオマスより低いことを示している——カサマツ 299.2℃、ユーカリ 295.5℃、ナツメヤシ葉柄 300℃[3]

臨床への翻訳

寝かせる年数について本書が言えるのは次の範囲である。年数が経つと揮発性成分が失われ、着火温度がわずかに上がり、燃え方が穏やかになる方向の変化が測定されている。これを「良くなる」と読むかどうかは、何を目的にするかによる。香りや成分を求めるなら失われており、燃焼の穏やかさを求めるなら得られている。原著はどちらが優れているかを述べていない。

なお、この測定は窒素雰囲気下の熱重量分析であり、施術で艾を空気中で燃やす条件とは異なる。著者らも実験室条件が臨床の燃焼動態を正確に再現するとは限らないことを認めている[3]

05日本のモグサ製造の現状

艾は農産物であり工業製品でもある。どこの葉を、誰が、いつ加工しているのか。日本の製造の実態を調査した報告がある。

5-1 製造業者へのアンケート調査

松本・形井(2015年)は、日本国内でモグサの製造・加工・国内卸業を行っている 14社 に対し、2011年11月16日 に郵送で、製造の現状と問題点など 15領域29項目 についてアンケート調査を実施した[18]。有効回答は 14社中12社85.7%)であった。

表5-1 仕入量(回答12社)[18]
品目国内産外国産
ヨモギの葉88 t45 t
モグサ13 t50 t

製造時期は 11月下旬から3月下旬頃までであった[18]。著者らは調査の背景として、近年は中国産ヨモギが輸入されそれを原料とした製品も販売されているが、その現状は詳しく報告されていない、と述べている[18]

5-2 原料のヨモギをどう選ぶか

安藤ら(2020年)は、日本のモグサ製造に適したヨモギ系統の選抜を目的として、全国各地より採取した 127地点 のヨモギおよびオオヨモギ栽培個体について、形態評価・品質評価・製造評価を実施した[20]。その結果、葉面積が大きく収穫が容易で効率的栽培に適した系統として 22系統 が抽出されている[20]

臨床への翻訳

この二つの数字を並べると、艾という材料の性格が見える。葉は国内産が外国産を上回るが、モグサ(加工済み)は外国産が国内産の約4倍入っている[18]。すなわち「国産の艾」と「国産の葉から作られた艾」は同じではない。手元の艾がどちらなのかは、この調査からは個別には分からない。本書はここで銘柄や産地の優劣を論じないが、材料の来歴が一様でないことは、第II部以降の温度データを読むうえで前提になる。

06モグサの品質評価——何を測れば等級になるのか

艾の「良し悪し」は、これまで主に手触りと見た目、そして施術者の経験で判断されてきた。それを数値化しようとする研究が、日本で継続的に行われている。本章はその試みを整理する。

6-1 試みられている二つの指標

大久保らは、モグサの品質評価について二報を発表している。第1報は一定加圧時の体積による評価[21]、第2報は色の数値化による評価である[22]。第1報のキーワードとして「moxa floss, standardization, volume, grade, quality assessment(モグサ、標準化、体積、等級、品質評価)」が挙げられている[21]

本書の限界

この二報および形井・松本(2017年)の日中韓の製造法比較[23]は、いずれもJ-STAGEに抄録が公開されておらず、本文PDFも文字情報として抽出できなかった。したがって本書は、この3文献から数値をいっさい引用しない。記せるのは、そうした評価手法の研究が行われているという事実と、用いられている指標の名称までである。

6-2 施術者は違いを感じ取れるのか

松本・形井(2016年)は、日本の臨床家に対し製造国が分からないようにして中国産と日本産の高精製モグサを提示し、違いをどう感じるかを評価用紙に記述してもらった[19]

表6-1 日本産と中国産の高精製モグサの官能評価[19]
項目結果
有効回答265名中164名(61.9%)
総合的に見て「少し違う」と回答54.9%
「使い勝手がよい」「使いたい」が多かったもの日本産
施灸した119名中「心地よかった」(日本産)85名(71.4%)

著者らは研究の背景として、日本では直接灸用のモグサは精製度が高く独自の製法で製造されてきたのに対し、中国などでは棒灸など間接灸が主流のため簡易な製法で低精製モグサが製造されてきたこと、しかし近年は中国でも高精製モグサが製造され日本産との違いが分かりにくくなってきたことを述べている[19]

臨床への翻訳

この結果は、施術者の感覚が何かを捉えていることを示している。しかし捉えているものが何なのかは、この研究からは分からない。温度は測られていないからである。「心地よい」という評価が温度曲線のどのパラメータに対応するのかは、『温度曲線』第12章で考察として扱う。現時点で言えるのは、感覚差が統計的に記録されたという事実までである。

第II部

お灸の煙の成分分析

煙に何が含まれるかを問う研究は複数ある。しかし、答えの印象は研究によって大きく異なる。その理由は、測っている量そのものが違うからである。ここを取り違えると、同じ現象について正反対の結論を持つことになる。

07何を測っているのか——存在比と実濃度

煙の研究を読むとき、最初に切り分けるべき区別が一つある。「何が含まれるか」と「どれだけ吸うか」は別の問いである。

7-1 二種類の測定

表7-1 煙の研究における二つの測定
測定するもの答える問い単位の例限界
相対存在比煙の中に何が、他と比べてどれくらい含まれるか%(検出成分中の割合)曝露量を示さない。抽出溶媒や捕集法で値が変わる
環境中の実濃度その場の空気に、どれだけの量が存在するかppm、µg/m³ など燃焼条件・室容積・換気の設定に依存する

7-2 なぜこの区別が決定的なのか

ある物質が煙に「含まれる」ことと、それが「健康影響を与えるだけの濃度で存在する」ことの間には、大きな距離がある。毒性は用量で決まる。したがって安全性を論じるには、相対存在比ではなく、施術環境における実濃度を、基準値と突き合わせなければならない。

臨床への翻訳

「お灸の煙には◯◯種類の化学物質が含まれ、うち◯◯種類は有害物質である」という言い方は、それ自体は誤りではなくても、安全性についての情報をほとんど含んでいない。患者や同僚からこの種の話を向けられたとき、返すべき問いは「それは何の単位で測った値ですか」である。次章と次々章で、この区別が実際にどう効くかを見る。

08日本の艾・日本の施術環境での実測

日本の艾を、日本の標準的な施術条件で燃やし、規制基準と突き合わせた研究がある。本書が煙の安全性について引用する主要な文献である。

8-1 研究の設計

松本・片井・並木(2016年)は、精製の程度によって分類した3種類の艾を用い、点火後に放出されたガスを捕集して、ガスクロマトグラフ質量分析計(GC/MS)による定性・定量分析を行った。日本の治療環境の標準的な条件が用いられている[12]

8-2 結果と結論(原文)

原著の記述

1,3-butadiene was present from the smoke at the highest level of concentrations of substances governed by assorted indoor air quality and environmental standards (1,3-butadiene, benzene, toluene, ethylbenzene, and xylene) and fell below maximum values. Also, simulation in an indoor environment with 1,3-butadiene was safely within indoor environmental standards.」[12]

(各種の室内空気質および環境基準の対象物質——1,3-ブタジエン、ベンゼン、トルエン、エチルベンゼン、キシレン——のうち、煙から最も高い濃度で存在したのは1,3-ブタジエンであったが、最大値を下回った。また1,3-ブタジエンによる室内環境のシミュレーションも、室内環境基準の範囲内で安全であった。)

結論部分も引用する[12]

原著の結論

「Our simulation results have shown that quantities of harmful substances released upon combustion of moxa during normal clinical therapy of Japan are below maximum levels. Hence are safe for both patient and practitioner. However we detected few amounts of harmful substances released from moxa. These harmful substances are invariably generated upon combustion, although varieties and quantities vary according to substance. So measures to maintain an appropriately safe work environment must be practiced, even though safety was confirmed.[12]

8-3 この結論の正確な読み方

著者らが述べているのは、次の三つを同時に含む内容である。どれか一つだけを取り出すと、原著の主張を歪めることになる。

  1. 日本の通常の臨床施術における放出量は基準値以下であり、患者にとっても施術者にとっても安全である。
  2. しかし有害物質は少量ながら検出された。燃焼にともなって必ず生成する。
  3. したがって、安全が確認されたとしても、適切に安全な作業環境を維持する措置は実施しなければならない。
本書の限界

本書は原著の本文(各物質の実測濃度の表)に到達できなかった。出版社サイトおよび機関リポジトリのいずれもアクセスできず、確認できたのは抄録原文のみである。したがって本書は、個々の物質の実測濃度の数値を記載しない。用いた3種の艾の具体的な種別、燃焼条件、室内シミュレーションの前提(室容積・換気回数・施灸数)も同様に確認できていない。『温度曲線』第13章の空白リストに掲げる。

なお、ホルムアルデヒド・アセトアルデヒド・アクロレインについての記述は抄録に含まれていない。本書はこれらの物質について何も述べない。

臨床への翻訳

この研究が施術者に与える実務的な指針は明確である。基準値以下であることと、換気が不要であることは別である。著者ら自身が「安全が確認されたとしても」作業環境の措置は実施しなければならないと明記している[12]。煙の量が多い日、狭い施術室、連続した施術——これらは原著が想定した「日本の通常の臨床施術」の条件から外れうる。

09中国の艾のGC-MS——印象が食い違う理由

同じ「煙の成分分析」でありながら、前章とはまったく異なる印象を与える研究がある。両者を並べると、第7章で述べた区別の意味がはっきりする。

9-1 研究の設計と結果

Xuら(2020年)は、品質検査を経た中国製の艾条(清艾条)の煙を5種類の異なる溶媒に吸収させ、GC-MS で分析した[13]

表9-1 溶媒別に同定された化合物数[13]
溶媒同定数その溶媒に固有
酢酸エチル14557
シクロヘキサン13952
無水エタノール8917
7747
n-ブタノール6010
合計2945溶媒共通は 11

5溶媒すべてに共通して検出された化合物の相対存在比は、フェノール 2.686〜5.405%、トルエン 0.650〜3.872%、ピリジン 0.137〜2.847%、ユーカリプトール 1.037〜1.605%、インドール 0.780〜1.257% であった[13]。著者らは全化合物のうち 112 を毒性のある化合物として分類し、それらが 812 の標的タンパク質と 54 の生物学的経路に関連するとしている[13]

9-2 二つの研究は何が違うのか

表9-2 松本ら(2016)と Xu ら(2020)の比較
項目松本ら 2016[12]Xu ら 2020[13]
日本の艾3種(精製度で分類)中国製の艾条(清艾条)
燃焼条件日本の治療環境の標準的条件抽出ポンプで5溶媒に捕集
測っているもの環境中の実濃度抽出液中の相対存在比
比較対象室内空気質・環境基準の最大値比較基準なし(データベースによる毒性分類)
結論基準値以下であり患者・施術者ともに安全。ただし有害物質は必ず生成するため作業環境の措置は必要毒性化合物が含まれる。安全な曝露閾値の決定には多数の症例分析と臨床試験が必要。施灸室の十分な換気を推奨

9-3 どちらが正しいのか

この問いの立て方が誤っている。両者は異なる問いに答えている。Xuらは「煙に何が含まれるか」を網羅的に調べ、松本らは「日本の施術環境でどれだけの濃度になるか」を基準値と突き合わせた。前者は後者の前提を提供し、後者は前者に量的な文脈を与える。

実際、Xuら自身が限界としてこう述べている——「灸によって生成される有害物質の量が人体への負の影響を左右する」のであり、安全な曝露閾値の決定には「多数の症例分析と臨床試験を要する」[13]著者ら自身が、自分たちのデータでは曝露量を論じられないと認めている。

臨床への翻訳

煙の安全性について施術者が依拠すべきなのは、日本の艾を日本の施術条件で測り、日本および国際的な基準値と突き合わせた研究である。すなわち松本ら(2016年)[12]である。そして両研究が共通して述べていることが一つある——換気である。結論の向きが違って見える二つの研究が、実務上の推奨では一致している。

第III部

本書が答えられなかったこと

抽象的な「今後の研究が待たれる」は書かない。次の研究者が明日着手できる粒度で、本書が到達できなかった数値を挙げる。

10本書の範囲で見出せなかったこと

本書が答えられなかったことを列挙する。抽象的な「今後の研究が待たれる」は書かない。次の研究者が明日着手できる粒度で書く。以下は原本の空白リストからの抜粋であり、番号は原本のもの、文言・引用は原本のまま変えていない。

10-1 空白リスト(もぐさの特性に関する項目)

表10-1 本書の調査範囲で定量データに到達できなかった事項
#空白なぜ埋まっていないと考えられるか
2艾の精製度と最高温度を同一研究内で対応づけた定量データ精製度の定量研究は中国産 A. argyi、温度の実測研究は日本、と国で分断している
3精製後の艾に、分泌毛と非分泌毛がどの比率で残るか毛茸の記載研究と艾の成分研究が別々に行われている
4日本の艾の精製工程が、中国の研究と同じ成分変化を示すか工程(篩・唐箕)も原料種も異なるが、比較した研究が見当たらない
7松本ら(2016年)[12]各物質の実測濃度と室内シミュレーションの前提出版社サイト・機関リポジトリのいずれもアクセスできなかった

10-2 この分野の研究が抱える構造的な制約

材料側と生体側の研究が分断している
成分分析は薬学・植物学の手法で、温度測定は工学・鍼灸学の手法で行われている。「精製度が変わると温度がどう変わるか」という、臨床がもっとも知りたい問い(空白2)が、どちらの分野の中心課題にもなっていない。
日本語文献の本文にアクセスしにくい
本書が数値を引用できなかった日本語文献は、第6章のモグサ品質評価に関する3件[21][22][23]である。いずれもJ-STAGEに抄録が公開されておらず、本文PDFからも文字情報を抽出できなかった。日本は灸の物理測定でもっとも蓄積のある国であるにもかかわらず、その蓄積が参照しにくい状態にある。
この先は姉妹巻に続く

温度・燃焼・赤外放射に関する空白(灸種を同一測定系で比較した時間-温度曲線の形、直接灸の生体内温度、塩灸の界面温度、灸器具の材質ごとの赤外放射ピーク波長、透熱灸の赤外放射、波長と組織到達深度の関係、隔物灸で溶出した成分の経皮吸収量)は、『温度曲線』第13章に収めた。

演習

理解度チェック

本書の内容から6問。選択するとその場で正誤と解説が出ます。設問はすべて本文に記載した報告値・記述に対応しており、各問には該当章へのリンクを付けました。自己確認のための演習であり、資格や技能を証明するものではありません。

Q01 出典:第1章

艾(もぐさ)とは何か。

Q02 出典:第2章

精製とは、艾にとってどんな工程か。

Q03 出典:第4章

艾を長く寝かせると何が変わると報告されているか。

Q04 出典:第6章

モグサの品質評価について、本書が扱っているのはどんな取り組みか。

Q05 出典:第8章

日本の艾を日本の施術環境で測ったお灸の煙について、報告されているのはどれか。

Q06 出典:第9章

煙の成分研究で報告される数値を読むとき、最も注意すべき区別はどれか。

解答ずみ 0 / 6
付録

引用文献

本書の記述はすべて以下の一次・二次資料に基づく。すべての文献に到達可能なURLを付した。本文に到達できず数値を引用しなかった文献には、その旨を注記した。

  1. Cui Z, Li M, Han X, Liu H, Li C, Peng H, Liu D, Huang X, Zhang Z. Morphogenesis, ultrastructure, and chemical profiling of trichomes in Artemisia argyi H. Lév. & Vaniot (Asteraceae). Planta. 2022;255(5):102. doi:10.1007/s00425-022-03889-0
  2. Li M, Chai X, Wang L, Yang J, Wang Y. Study of the Variation of Phenolic Acid and Flavonoid Content from Fresh Artemisiae argyi Folium to Moxa Wool. Molecules. 2019;24(24):4603. PMC6943600
  3. Lim MY, Zhang X, Huang J, et al. Study of Thermal Behavior of Moxa Floss Using Thermogravimetric and Pyrolysis-GC/MS Analyses. Evid Based Complement Alternat Med. 2021;2021:6298565. PMC7904358
  4. 山下仁, 江川雅人. 透熱灸の温度と燃焼時間——艾炷の密度および高さの影響. 全日本鍼灸学会雑誌. 1995;45(3):203-207. doi:10.3777/jjsam.45.203
  5. Hong ZG, Lü F, Wei HS, Yuan YH, Wu HG. Study on moxa sticks burning temperature-time-space curves. Zhongguo Zhen Jiu. 2012;32(11):1024-1028.(中国語論文。本書は英文抄録に記載された値のみを引用した) PMID: 23213993
  6. 和田恒彦, 全英美, 宮本俊和. 間接灸の温度特性. 日本東洋医学系物理療法学会誌. 2017;42(2):65-71. doi:10.32255/jjsop.42.2_65
  7. 松井敬宏, 糸井信人, 佐藤義晃, 谷口美保子, 石井祐三, 中西智子, 中嶋拓美, 松本美由季, 長谷川尚哉. 2種の異なる台座灸燃焼時の深部温度変化シミュレーションの検討. 日本東洋医学系物理療法学会誌. 2023;48(2):75-85. doi:10.32255/jjsop.48.2_75
  8. Matsumoto T, Katai S, Namiki T. Safety of smoke generated by Japanese moxa upon combustion. Eur J Integr Med. 2016;8(4):414-422.(本文の実測濃度の表に到達できなかった。本書は抄録原文のみを引用した) doi:10.1016/j.eujim.2016.03.005
  9. Xu X, Shan S, Wang W, Liu H. Analysis of the Components in Moxa Smoke by GC-MS and Preliminary Discussion on Its Toxicity and Side Effects. Evid Based Complement Alternat Med. 2020;2020:2648759. PMC7648687
  10. Zhao L, Cheng K, Wang L, et al. Effectiveness of moxibustion treatment as adjunctive therapy in osteoarthritis of the knee: a randomized, double-blinded, placebo-controlled clinical trial. Arthritis Res Ther. 2014;16(3):R133. PMC4095686
  11. 松本毅, 形井秀一. 日本のモグサ製造の現状について. 日本東洋医学雑誌. 2015;66(2):140-146. doi:10.3937/kampomed.66.140
  12. 松本毅, 形井秀一. 日本産と中国産のモグサの違いに関する研究. 日本東洋医学雑誌. 2016;67(4):399-407. doi:10.3937/kampomed.67.399
  13. 安藤匡哉, 松本毅, 渡辺均. 日本のモグサ製造に適したヨモギおよびオオヨモギの国内自生系統の評価. 全日本鍼灸学会雑誌. 2020;70(2):112-119. doi:10.3777/jjsam.70.112
  14. 大久保淳子, 形井秀一, 戸田静男, 松本毅, 遠藤久美子, 田代淳子, 渡邉美保, 會澤重勝. 一定加圧時の体積によるモグサ品質評価の試み. 全日本鍼灸学会雑誌. 2016;66(3):157-165.(抄録が公開されておらず、本文PDFも文字情報として抽出できなかった。本書は数値を引用していない) doi:10.3777/jjsam.66.157
  15. 大久保淳子, 形井秀一, 戸田静男, 松本毅, 遠藤久美子, 田代淳子, 會澤重勝. モグサ品質評価の試み(第2報)色の数値化による評価. 全日本鍼灸学会雑誌. 2017;67(2):110-123.(同上。本書は数値を引用していない) doi:10.3777/jjsam.67.110
  16. 形井秀一, 松本毅. 日本と中国、韓国のモグサ製造法の違いについて. 全日本鍼灸学会雑誌. 2017;67(4):327-339.(同上。本書は数値を引用していない) doi:10.3777/jjsam.67.327

もぐさの特性 第1版 2026年8月17日発行
発行:合同会社YOMOGI BASE(鍼灸エビデンス・ライブラリ)

本書の位置づけ。本書は『艾と熱源の科学』(第1版・全23章)を読み進めやすい分量に分けた二分冊の上巻であり、艾の成分・精製・製造・品質評価と、お灸の煙の成分を収める。温度曲線・灸種別の特性・赤外放射は下巻『温度曲線』に収めた。

数値の出所方針。本書に記載した数値は、すべて一次文献に記載された報告値をそのまま引用したものである。編者が計算・推定・丸めた値は含まない。平均±SD は原著の表記どおりに記した。表に編者が算出した値は一つも含まれていない。

調査範囲。英語・日本語・中国語圏を対象に14クエリの検索を行い、23件の一次・二次資料に到達した(2026年8月16日時点)。到達できなかった数値は記載していない。本文に到達できなかった文献については、引用文献欄にその旨を明記し、抄録で確認できた記述のみを用いた。分冊にあたり、本書の本文が引用している文献のみを引用文献欄に掲げ、番号は原本の通し番号を保持した。

本書の限界。艾の成分分析は中国産 Artemisia argyi を対象としたものであり、日本の艾に同じ結果が当てはまるかは確認されていない。本書の範囲の空白リストは第10章に、原本全体の空白リストは『温度曲線』第13章に掲げた。

発行と利益相反。本書の発行者は合同会社YOMOGI BASEである。同社はよもぎ・お灸に関連する商品を扱う事業者であり、この利害関係を開示したうえで、本書では特定の商品・サービス・銘柄に一切言及せず、効能をうたわない編集方針を採っている。文献の選定・数値の引用・空白の明示は、事業上の利害と独立して行った。自社および自社関係者による発信は、査読の有無にかかわらず出典として用いない。

ご利用にあたって。本書は教育・研究目的の学術情報であり、個々の患者に対する診断・治療方針を示すものではない。臨床判断は、施術者自身の責任において、患者の状態と関連法規に基づいて行われたい。

改版履歴。2026年8月16日 原本『艾と熱源の科学』(全23章)第1版発行。
2026年8月17日 二分冊化にともなう第1版。章番号を分冊内で振り直し、表・図の番号を各分冊の章番号に合わせて振り直した。姉妹巻の章への参照はリンクで接続した。
2026年8月17日 出典照合版。全引用文献をNCBI(PubMed/PMC)・Crossref・J-STAGEの書誌レコードに当たって実在と書誌を確認し、著者名・巻号頁を補完した。孫引き・誤帰属・非査読ソースは一次文献に差し替え、差し替えた箇所は引用文献欄に注記した。編者が報告値を超えて述べる示唆は1冊2件までとする規約を序章に明記した。