鍼灸エビデンス・ライブラリ
灸と痛みの生理学(全2分冊) ① 痛みの経路と、灸が触れうる地点 姉妹巻:灸と痛みの生理学②
Moxibustion & Pain ① — 機序編・全15章

灸と痛みの生理学①

痛みが末梢から脳へ上り、脳から抑えられるまでの経路を引き、
灸がその経路のどこに、何度の熱をどれだけ与えているのかを確かめる。

第1版 2026年8月 疼痛の分類 / 侵害受容と感作 / 下行性調節 / 灸の実測温度 / 灸の鎮痛機序
序章

疑い方を先に渡す

本書は「灸は痛みに効く」を証明する本ではない。痛みという現象の経路を分解し、その経路のどこに灸の入力が届いているかを、原著の報告値だけで確かめていく本である。二分冊の①にあたる本書は経路と機序を扱い、痛みの種類別の臨床エビデンスは②に送る。

00本書の読み方とエビデンスの階層

痛みは主観である。主観を扱う研究は、測り方ひとつで数字が二倍動く。だから本書では、数値を出すたびにそれがどの種類の研究から出た数値なのかを明示する。読者に先に渡すべきは結論ではなく、疑い方である。

0-1 本書を貫く三つの問い

  1. 痛みは、どの受容器・どの線維・どの中継点を通って脳に届き、どこで抑えられるのか。
  2. 灸という熱刺激は、その経路のどの地点に、どれだけの大きさで介入しているのか。
  3. その介入の大きさは、痛みの種類によってどう変わるのか。

三つ目が本書の中心である。「灸は痛みに効くか」という問いは、答えが出ない形をしている。痛みは単一の現象ではないからだ。炎症で生じた痛みと、神経が傷ついて生じた痛みと、組織にも神経にも明らかな損傷がないのに続く痛みは、発生している場所も、維持している仕組みも違う。本書は、この三つを分けたうえで灸の作用を検討する。

本書が「示唆」を書くときの規約

本書は原著の報告値だけで構成する。報告値を超えて編者が可能性を述べる箇所は、1冊につき2件までとし、いずれも「考察」「臨床仮説」等のラベルを付けた囲みの中に置き、成立しない条件を併記する。囲みの外の本文に、報告されていない因果や機序を書かない。ラベルのない断定は、すべて原著の報告値か、原著の著者自身の結論である。

0-2 エビデンスの階層

以下の階層を、本書のすべての記述に付す。階層が低いことは「間違い」を意味しない。どこまで一般化してよいかの範囲を示している。

表0-1 本書で用いるエビデンス階層
階層デザイン典型的な弱点
A盲検化RCT/Cochraneレビュー本数が少ない。偽刺激の妥当性が常に議論になる
Bヒトの客観指標を用いた実験(脳画像・温度実測など)n が小さい。観察時間が短い
C動物実験(機序解明)刺激条件がヒト臨床と異なる。種差
D非盲検RCT/単群前後比較/それらのメタ解析出版バイアス大。実施国の偏り
E症例報告・非査読資料査読なし。ただし物理測定値や有害事象の記録は有用
読み方の注意

階層Dの数値がもっとも大きく見えることが多い。本書に出てくる効果量のうち、値が大きいものほど非盲検・単一国由来である傾向がある。数字の大きさと確からしさは、この分野では逆相関しうる。『灸と痛みの生理学②』第7章にその一覧を置いた。

0-3 確実性の書き分け

本書は「効く」という語を使わない。代わりに次を使い分ける。「〜である」=確実性が高い。「おそらく〜する」=中等度。「〜と報告されている」「〜の可能性がある」=低い。「〜という報告があるが、確実性は非常に低い」=非常に低い。「〜については定量的なデータが見出せなかった」=不明。

また、有意差がなかった結果を「傾向がみられた」とは書かない。有意差がなければ、有意差はなかったと書く。

0-4 既刊との関係

本ライブラリの既刊『灸と神経生理学』は、灸の熱が皮膚でどう受容され、どんな信号に変換され、どんな出力を生むかを刺激の側からたどった。本書は同じ現象を痛みの側から見る。温度感受性TRPチャネルの閾値地図、後角ニューロンの実測発火、自律神経出力については既刊に詳しい。本書ではそれらを前提として扱い、重複する説明は最小限にとどめた。局所血流の時間経過については『灸と血流の生理学』を参照されたい。

0-5 本書が扱わないこと

  • 鍼(刺鍼)単独の研究を、灸の根拠として引用しない。両者は動員する線維も層も異なる可能性が示されている(第10章)。ただし比較の対象として鍼の研究を提示する箇所はあり、その場合は明示する。
  • 経絡・気血などの伝統的説明を、現代生理学の言葉で裏づけられたものとして書かない。観察された事実としては記すが、それが伝統理論の実在を証明するものではない。
  • 商品・器具のブランド・価格・購入先。本書は特定の製品にいっさい言及しない。
第I部

痛みはどんな経路をたどるのか

灸の話に入る前に、痛みそのものの地図を引く。この地図がないと、以降に出てくる数値が「どこの話なのか」を判断できない。第I部の記述は疼痛医学の一般知識であり、灸に固有の内容は含まない。

01痛みは三つに分類される

臨床で最初に決めるべきことは、経穴でも刺激量でもない。目の前の痛みがどの機序で生じているかである。国際疼痛学会(IASP)は痛みを三つの記述子に分けている。この分類は、本書の第IV部(疾患別の反応)の骨格そのものになる。

1-1 三つの記述子

侵害受容性疼痛(nociceptive pain)
実際の組織損傷、あるいは損傷のおそれによって侵害受容器が活性化されて生じる痛み。炎症・外傷・変形性関節症の痛みがここに入る。侵害受容器という入口が実在するのが特徴である。
神経障害性疼痛(neuropathic pain)
体性感覚神経系の疾患または病変によって生じる痛み。帯状疱疹後神経痛、糖尿病性多発神経障害、神経根症などが該当する。入口である受容器ではなく、配線そのものが壊れている状態である。
侵害可塑性疼痛(nociplastic pain)
IASPの定義では「末梢侵害受容器を活性化させるような実際のあるいは差し迫った組織損傷の明らかな証拠がなく、また痛みを引き起こす体性感覚神経系の疾患や病変の証拠もないにもかかわらず、侵害受容の変化から生じる痛み」[1]。線維筋痛症などが典型例として挙げられる。

侵害可塑性疼痛という記述子は 2017年 に第三の機序として導入され、2021年 にIASPが最初の臨床基準とグレーディングシステムを公表した[1]。比較的新しい概念であり、灸を含む多くの伝統的治療法の臨床研究は、この分類が定着する前に設計されている。『灸と痛みの生理学②』第5章で見るとおり、これが本書における最大の空白の一つを生んでいる。

1-2 中枢性感作という共通言語

中枢性感作(central sensitization)は「痛覚過敏を引き起こす、中枢神経系内における神経シグナル伝達の増幅」と定義される[1]。注意すべきは、中枢性感作と侵害可塑性疼痛は同義ではないという点である。中枢性感作は機序を指す語であり、侵害可塑性疼痛は臨床像を指す語である。侵害受容性疼痛でも神経障害性疼痛でも中枢性感作は起こりうる。

臨床への翻訳

この分類は、施術後の反応の読み方を変える。侵害受容性疼痛では、局所の炎症が引く時間軸で痛みが動く。神経障害性疼痛では、局所への刺激が痛みの発生源に届いていない可能性を最初から考える必要がある。侵害可塑性疼痛では、刺激量を上げることが状態を悪化させうる。「効かないから壮数を増やす」という判断は、三つのうち一つの型でしか正当化されない。

02侵害受容器と一次求心線維

痛みの経路は、皮膚・筋・内臓に分布する自由神経終末から始まる。ここで問題になるのは「どの線維が、どれくらいの速さで、何を運ぶか」である。灸の熱がどの線維を動かすかは第10章で扱う。本章はその前提となる基礎である。

2-1 二種類の侵害受容線維

表2-1 侵害受容を担う一次求心線維の伝導速度[2]
線維伝導速度髄鞘主な性質
C線維0.4〜1.4 m/s無髄ポリモーダル。機械・熱・化学のいずれにも応答する型を含む
A線維侵害受容器約5〜30 m/s有髄多くはAδ域。熱・機械感受性が主

C線維には機能的な亜型があり、機械熱感受性(C-MH)、機械冷感受性(C-MC)、熱のみに応答する型(C-H)などが区別される[2]。A線維側も同様に、熱機械型(A-MH)、熱型(A-H)、機械型(A-M)に分かれる。「痛みの線維はAδとCの二つ」という整理は、教育上の簡略化である。

2-2 侵害の温度域

熱刺激が侵害受容の範囲に入るのは、およそ 40〜45℃ 以上である[2]。侵害性の冷刺激はおよそ 15℃ 以下とされる。この 40〜45℃ という数字は、本書全体を通じて繰り返し参照する。灸の実測温度(第8章)と、鎮痛効果が変化する温度(第12章)を判断する基準線になるからである。

温度感受性TRPチャネルの個別の閾値と、灸との対応関係については既刊『灸と神経生理学』第02〜04章に詳述した。本書では、灸が侵害受容域に入る温度を出しているかどうかという一点だけを扱う。

2-3 C線維は求心性だけの線維ではない

C線維の終末は、興奮するとサブスタンスPやCGRP(カルシトニン遺伝子関連ペプチド)などの血管拡張性物質を末梢側に放出する[2]。すなわち、信号を中枢へ送ると同時に、末梢の組織環境そのものを変える。この遠心性の働きが軸索反射とフレア反応を生む。灸の局所作用を考えるうえで、この「一本の線維が二方向に働く」構造は決定的に重要である(第11章)。

03末梢感作——閾値が下がるということ

炎症が起きた組織では、同じ刺激で以前より強い痛みが出る。これは「気のせい」でも「痛みに敏感になった」という心理現象でもなく、受容器レベルで測定できる物理的な変化である。

3-1 炎症メディエータが終末を感作する

組織損傷や炎症では、ブラジキニン、プロスタグランジンE2(PGE2)などのメディエータが産生される。これらは末梢終末のイオンチャネル・受容体・セカンドメッセンジャー系に直接および間接に作用し、終末を感作する[2]。加えて、前章で述べたサブスタンスPやCGRPが侵害受容器自身から放出され、これも感作と神経原性炎症を促進する[2]

結果として起こるのは二つである。閾値の低下(本来なら痛くない刺激で発火する=アロディニア)と、反応の増大(痛い刺激でより強く発火する=痛覚過敏)。

3-2 なぜこれが灸の議論に効くのか

末梢感作が生じている皮膚では、灸の熱がふだんより強い入力になる。同じ壮数・同じ温度でも、炎症のある部位とない部位では中枢に届く信号量が異なる。既刊で扱った後角ニューロンの実測でも、病態モデル動物では正常動物より同一条件の灸に対する発火が大きかった。

臨床への翻訳

感作された部位への施灸は、施術者が意図した刺激量より強い入力になりうる。初回の刺激量を、痛みの強い患者ほど控えめに設定するという経験則は、この末梢感作の生理学と矛盾しない。逆に「痛みが強いから強い刺激を」という発想は、感作の存在を無視している。

04脊髄後角は中継ではなく編集である

末梢からの信号は、脊髄後角でそのまま上位へ渡されるわけではない。後角は、複数の入力を統合し、増幅も抑制もかける編集部である。灸の鎮痛を考えるうえで、ここが最初の実質的な介入点になる。

4-1 同じ後角ニューロンに複数の入力が集まる

後角の広作動域(WDR)ニューロンには、皮膚・筋・内臓など異なる由来の入力が収束する。このため、皮膚への刺激が同じ分節の内臓由来の信号処理に影響しうる。灸が体表への刺激でありながら深部や内臓の症状に関与しうるとされる理論的根拠の一つが、この収束構造である。

4-2 中枢性感作は後角で起きる

持続的な侵害入力があると、後角ニューロンのシナプス強度が変化し、本来は侵害受容に関与しない非侵害性ニューロンまで動員されるようになる[2]。これが中枢性感作の脊髄レベルでの実体である。ここまで進むと、末梢の炎症が消退しても痛みが残りうる。

4-3 後角ニューロンの発火については既刊を参照

灸様の熱刺激が後角WDRニューロンをどれだけ発火させるか、その発火量が温度でどう変わるかについては、既刊『灸と神経生理学』第10〜12章に麻酔動物の実測値を掲げた。本書で押さえておくべき点は一つである。灸はまず侵害受容系を活性化する。鎮痛が生じるとすれば、それはこの入力の後に起こる調節の結果である。

05上行路と「痛みの脳」

後角を出た信号は一本の道を上るのではない。複数の並列経路が、痛みの異なる側面を運ぶ。この並列性が、「痛みの強さは変わらないのに苦痛が減った」という臨床現象を説明する。

5-1 痛みを担う単一の中枢は存在しない

ヒトの脳画像研究では、痛みに関連して前帯状回(ACC)、島皮質、前頭前野(PFC)、一次体性感覚野、視床、扁桃体、海馬、中脳水道周囲灰白質(PAG)などが繰り返し報告される[25]。これらは分業しており、感覚識別的側面(どこがどれくらい痛いか)と、情動・認知的側面(それがどれほど不快で、どんな意味を持つか)は異なる領域が担う。

とくに島皮質は感覚的側面と情動的側面を統合する位置にあり、前帯状回は情動・認知的側面に強く関与するとされる[25]。灸の脳画像研究で島皮質やACCの変化が報告されるのは、この文脈で読む必要がある(第13章)。

要点

脳画像で「ある領域の活動が変わった」という所見は、その領域が痛みを作っていた証拠ではない。賦活は入力・処理・出力のいずれとも解釈できる。第13章の所見も、この留保つきで読む。

06下行性疼痛調節系とCPM

脳は痛みを受け取るだけの器官ではない。脳幹から脊髄後角へ下る経路が、入ってくる信号そのものを抑制も増強もする。「痛みが痛みを抑える」という現象は、この系の働きを測る窓になる。灸の鎮痛を語るとき、もっとも期待され、しかしもっとも測られていないのがこの経路である。

6-1 DNICとCPM

DNIC(広汎性侵害抑制調節)は「異所性に侵害刺激を加えると、空間的に離れた別の侵害入力が減弱する現象」と定義される[3]。ヒトでこれに相当する心理物理学的パラダイムがCPM(条件づけ疼痛調節)であり、定量的感覚検査を用いて内因性疼痛抑制の機能を評価する手法である[3]

関与する脳幹核として、中脳水道周囲灰白質(PAG)、ON細胞とOFF細胞を含む延髄吻側腹内側部(RVM)、青斑核(LC)、背側網様核(DRt)、A5ノルアドレナリン核が挙げられている[3]

6-2 三つの伝達物質系

表6-1 下行性調節に関与する主な伝達物質系[3]
受容体方向
セロトニン5-HT7抑制性(鎮痛を媒介)
セロトニン5-HT3興奮性(痛みを促進)
ノルアドレナリンα2受容体抗侵害受容性
ノルアドレナリンα1受容体双方向性
オピオイドμ受容体(PAG・RVM・LC・DRt)Gi共役で鎮痛、Gs共役で痛覚過敏と耐性

同じ伝達物質が、受容体サブタイプによって逆向きに働く。「セロトニンが増えるから痛みが減る」といった単純な図式は成立しない。

6-3 慢性疼痛ではこの系が壊れている

CPMは、過敏性腸症候群、片頭痛、緊張型頭痛、顎関節症、線維筋痛症、変形性関節症といった慢性疼痛病態で一貫して低下することが報告されている[3]。Lewisら(2012年)のレビューでは、健常者と慢性疼痛患者を比較した研究のおよそ70%でCPM鎮痛の有意な低下が示された[3]

動物実験ではさらに時間経過が追われている。CFA誘発単関節炎モデルでは、DNICは 7〜21日 は保たれ、28日 で最大となり、35〜42日 にかけて低下し、それ以降は完全に消失した[3](階層C)。さらに重要な指摘として、慢性疼痛では下行性調節のバランスが促進側に傾き、DNICが鎮痛ではなく痛覚過敏に転じうるとされている[3]

臨床への翻訳

灸は侵害受容系への入力から始まる(第4章)。もし灸の鎮痛の一部がDNIC様の機構に依存しているなら、その機構が壊れている患者では同じ刺激が同じようには働かないことになる。罹病期間の長い患者、複数部位に痛みを抱える患者で反応が乏しいという臨床印象は、この生理学と整合する。ただし「灸がヒトでCPMを誘導するか」を直接測った研究には、今回の調査範囲では到達できなかった(第14章・『灸と痛みの生理学②』第11章)。

07経路地図——灸が触れうる地点はどこか

第I部で引いた地図をまとめる。痛みの経路には、理論上いくつもの介入点がある。本書の残りは、そのうち灸について実測データが存在する地点と、存在しない地点を仕分ける作業である。

図7-1 痛みの経路と、灸に関する実測データの有無(模式図)
① 末梢終末 実測あり(C) ② 脊髄後角 実測あり(C) ③ 上行路 灸単独の実測なし ④ 脳 実測あり(B) ⑤ 下行性調節・CPM ヒトでの灸の実測データを見出せなかった ⑥ 臨床アウトカム(VAS・WOMAC) データは豊富だが、確実性は低〜非常に低(D)
模式図。解剖学的な正確さではなく、データの有無の分布を示すための図である。①②は動物実験(階層C、第10〜12章)、④はヒトの脳画像(階層B、第13章)、⑥は臨床試験(階層D中心、第15〜18章)。③と⑤には、灸に関する直接の定量データを本書の調査範囲で見出せなかった。

7-1 この地図の読み方

注目すべきは分布の偏りである。もっとも末梢(①)ともっとも出口(⑥)にデータが集中し、その間をつなぐ経路(③⑤)が空白になっている。すなわち現在の灸研究は、「入口で何が起きたか」と「最終的に痛みが減ったか」は語れるが、その間をどうつないだかを語れない。

本書の残り全体は、この地図の各地点を順に埋めていく作業である。埋まらなかった地点は、埋まらなかったと書く。

第II部

灸が与えている物理量

灸を経路に接続する前に、灸そのものが何度の熱をどれだけの時間与えているのかを確かめる。ここを曖昧にしたまま機序を論じると、動物実験の温度条件と臨床の温度条件を無自覚に混同することになる。

08灸の実測温度

日本で行われた間接灸の温度実測がある。灸の種類によって最高温度は 30℃ 台から 60℃ 台まで分布し、その差は第12章で見る「鎮痛効果が変わる温度」をまたいでいる。

8-1 報告された実測値

和田ら(2017年)は、台座灸・温筒灸・棒灸について熱電対を用いた温度測定を行った。測定は 0.55秒 間隔で 600秒 間、各灸につき 6回 実施されている[4]

表8-1 間接灸の平均最高温度(平均±SD)[4]
灸の種類平均最高温度
温筒灸64.3 ± 3.3 ℃
台座灸55.9 ± 5.0 ℃
棒灸(高さ20 mm)51.2 ± 4.7 ℃
棒灸(高さ100 mm)30.1 ± 3.3 ℃

著者らはこの測定の動機を「間接灸は火傷の可能性もあり温度特性について把握しておく必要がある」と述べている[4]

測定法の注意

この値は熱電対が置かれた位置での温度であり、皮膚のどの深さの温度でもない。表皮直下の受容器終末が実際に曝される温度は、皮膚の厚み・血流・接触面積によって変わる。同じ「55.9℃の台座灸」でも、部位が違えば終末温度は同じにならない。

8-2 距離が変数であることの意味

棒灸の二つの値、51.2 ± 4.7℃(高さ20 mm)と 30.1 ± 3.3℃(高さ100 mm)の差は 20℃ を超える。距離を 80 mm 変えるだけで、片方は侵害受容の温度域(第2章)に入り、もう片方は体温をわずかに上回る程度にとどまる[2][4]

臨床への翻訳

棒灸において「距離」は補助的な調整項目ではなく、刺激の種類そのものを決める第一の変数である。高さ100 mmの棒灸は、この実測値に照らせば侵害受容器を動かす熱刺激ではない。効果が出ないときに壮数や時間を増やす前に、まず距離を確認する根拠がここにある。

09「熱い灸」と「温かい灸」は別の刺激である

第2章の侵害温度域(およそ 40〜45℃ 以上)と、第8章の実測値を重ねると、灸は一つの技法ではなく二つの異なる刺激カテゴリにまたがっていることが分かる。

9-1 境界線を引く

表9-1 実測温度と侵害受容域の対応
灸の種類平均最高温度侵害受容域(約40〜45℃以上)
温筒灸64.3 ± 3.3 ℃明確に超える
台座灸55.9 ± 5.0 ℃明確に超える
棒灸(20 mm)51.2 ± 4.7 ℃超える
棒灸(100 mm)30.1 ± 3.3 ℃届かない

温度域を超えるものは侵害受容器を動員する熱刺激であり、届かないものは非侵害性の温熱刺激である。両者を「灸」という一語でまとめて論じることはできない。臨床研究のメタ解析が高い異質性(I2)を示す一因は、この物理的に異質な介入が同じカテゴリに束ねられていることにある(『灸と痛みの生理学②』第7章)。

9-2 温度と時間は交換できない

第12章で見るとおり、神経障害性疼痛のモデルでは 37℃42℃ の間に有意差がなく、47℃52℃ の間にも有意差がない。一方で 42℃ 群と 47℃ 群の間には差がある[7]。これは階段状の反応であり、低い温度を長く当てても高い温度と同じにならない可能性を示す(階層C)。

留保

ただし、これはマウスのST36における30分の刺激の話である。ヒトの臨床点で同じ階段が存在するかを確かめた研究には、今回の調査範囲では到達できなかった。本書は「47℃を目安にせよ」とは書かない。書けるのは「温度が刺激の質を分ける変数でありうる」ところまでである。

第III部

灸はどの経路の何を動かすのか

本書の中核である。第I部で引いた地図の各地点について、灸に関する実測データを一つずつ当てていく。ここに出てくる知見の多くは階層C(動物実験)であり、ヒトへの一般化には慎重を要する。その留保を各章に明記する。

10灸様刺激は皮膚C線維を動かす

灸と鍼は、同じ経穴に与える代替可能な二つの手段ではない可能性がある。麻酔ラットでの単一線維記録は、両者が別々の層の別々の線維を動員していることを示した。

10-1 実験の設計

Chenら(2021年)は、SDラット(200 ± 20 g)の右腓腹筋にCFAを注入して炎症性筋痛モデルを作り、BL57(承山)に二種類の刺激を与えた[5]。各群 n = 6〜8

表10-1 比較された二つの刺激条件[5]
刺激条件動員された線維
灸様刺激(MS)50℃ の温水を10分間、局所皮膚に適用皮膚C線維(伝導速度 1.5 m/s 未満)
深部電気鍼(dEA)10 Hz・0.2 ms・1 mA、40分筋のA線維(伝導速度 1.5 m/s 以上)

10-2 線維を潰すと鎮痛が消える

この実験の要点は、線維を選択的に破壊して鎮痛が消えるかを見たところにある。

  • 皮膚除神経を行うと、局所カプサイシン(0.2%)によるC線維発火と疼痛行動への抑制効果が「ほぼ完全に消失した」と記述されている[5]
  • コブラ毒によるA線維の遮断を行うと、「深部電気鍼はもはやC線維の自発活動に対する抑制効果を生じなかった」と記述されている[5]

すなわち、皮膚C線維を経由する経路と、筋のA線維を経由する経路は、互いに置き換えがきかない。深部電気鍼はCFAで生じたC線維の自発発火そのものを抑制しており(n = 9 線維、p < 0.05 または p < 0.0001)、その効果はA線維の遮断で失われた[5]。C線維の活性化はサブスタンスPとCGRPの免疫組織化学でも確認されている[5]

10-3 著者自身の限界の記述

著者らは「局所鎮痛におけるこれらの物質に関する神経生理学的証拠が不足しており、とくに異なるパラメータの刺激による機序の説明が不足している」と述べ、灸様刺激の鎮痛が下行性抑制系によるのかシナプス前抑制によるのかは今後の検討課題であるとしている[5]

臨床への翻訳

この所見(階層C)が示唆するのは、「鍼が効かなかったから灸を足す」という選択が、単なる刺激量の追加ではなく、別の入力経路の追加になりうるということである。逆に、皮膚感覚が失われている部位(糖尿病性神経障害の足底など)では、灸が依存している皮膚C線維の経路そのものが機能していない可能性を考える必要がある。ただしこれは麻酔ラットの筋炎モデルの所見であり、ヒトでの検証は示されていない。

11局所で起きること——ATPと90分

灸を据えた経穴の局所では、何が放出されているのか。高速液体クロマトグラフィ(HPLC)で施灸部位のプリン体を直接測った研究がある。そこで上がったのはアデノシンではなく、ATPだった。

11-1 実験と鎮痛の実数

Yinら(2021年)は、雌SDラット(200〜220 g、各群 n = 10)の右後肢にCFA 100 μl を注入し、5日目にST36(足三里)へ艾条(直径 4 mm・長さ 120 mm)を約 1 cm 離して 30分間 施灸した[6]

表11-1 CFA炎症性疼痛ラットにおける灸の効果[6]
指標備考
施灸前の疼痛閾値2.847 ± 0.229 gvon Frey フィラメント
施灸後の疼痛閾値8.268 ± 0.468 gP < 0.01
鎮痛の持続90分120分までに消失
CFA群(施灸なし)有意な変化なしP > 0.05

11-2 局所のATPは約7倍になった

施灸した経穴から採取した検体のHPLC分析では、ATPが 60分 の時点で 186.62 ± 23.12 nM に達し、これはベースラインの約 7倍 であった(P < 0.001)[6]。ADP・AMP・アデノシンはいずれも 30分 で上昇してピークを示し(P < 0.05 〜 P < 0.01)、その後低下して 90〜120分 にはベースライン付近に戻った[6]

薬理学的な操作でも同じ方向の結果が得られている。

表11-2 ATP代謝を操作したときの鎮痛の変化[6]
薬剤作用灸の鎮痛への効果
ATPaseATPの分解を促進125・250・500 μg/ml で鎮痛が減弱
ARL67156ATPの分解を阻害125 μg/ml で鎮痛が増強
ARL67156(高用量)同上250 μg/ml では逆に減弱

11-3 著者が残した問い

この研究の価値は、結論よりも著者自身が提示した矛盾にある。彼らはこう書いている——「なぜATPが灸誘発性鎮痛で重要な役割を果たすのに、アデノシンが鍼鎮痛に関与するのか。これは深く探究するに値する問いである」[6]。さらに、熱によって放出されるATPは理論上は痛みを増強するはずであるという逆説も認めている[6]

また著者らは、特異的なプリン受容体拮抗薬を用いず酵素による操作にとどめたこと、単一の経穴・単一の疼痛モデルでしか検証していないことを限界として挙げている[6]

臨床への翻訳

この実験(階層C)で観察された鎮痛は 90分 で終わり、120分 までに消えた。一方で『灸と痛みの生理学②』第1章で見る臨床試験では、施灸終了から数週間後にも群間差が残っている。この二つの時間スケールは、同じ機構では説明できない。灸の即時効果と累積効果は別の話として扱う必要がある。「施灸直後の変化」で治療全体の当否を判断してはならない。

12痛みの種類で温度反応が変わる

本書の中心となる章である。同じ経穴に、同じ時間、温度だけを変えて灸を与えたとき、炎症性疼痛と神経障害性疼痛では反応の形がまったく違った。片方は連続的な用量反応を示し、もう片方は階段状の閾値反応を示した。

12-1 実験の設計

Zhouら(2017年)は雄C57BL/6Jマウス(20 ± 2 g)を用い、ST36に 37℃・42℃・47℃・52℃(各±1℃)の灸を 30分間 与えた[7]

表12-1 二つの疼痛モデルと評価法[7]
モデル作成法n評価
慢性炎症性疼痛CFA 20 μl を右後肢に注入、4日目に評価18/群熱逃避潜時(Hargreaves法、カットオフ20秒)
神経障害性疼痛SNI(総腓骨神経・脛骨神経を結紮切断、腓腹神経は温存)、4日目に評価14/群機械逃避閾値(dynamic plantar aesthesiometer)

12-2 炎症性疼痛——温度が高いほど強い

CFA炎症性疼痛では、熱逃避潜時が温度に応じて連続的に伸びた。ピークは施灸 30分後 である。

表12-2 炎症性疼痛(CFA)における熱逃避潜時(秒、平均±SE、施灸30分後)[7]
30分後120分後
対照(無処置)15.32 ± 0.0915.38 ± 0.16
CFA(灸なし)3.91 ± 0.054.17 ± 0.14
CFA+灸 37℃6.52 ± 0.314.67 ± 0.21
CFA+灸 42℃8.05 ± 0.665.17 ± 0.28
CFA+灸 47℃10.11 ± 0.426.94 ± 0.30
CFA+灸 52℃14.37 ± 0.7613.05 ± 1.31

著者らの結論は「慢性炎症性疼痛マウスでは、灸の温度が高いほど鎮痛効果が良好であった」である[7]52℃ 群では 120分後 でも 13.05 ± 1.31秒 を保っており、他の温度群と持続時間も異なる。

12-3 神経障害性疼痛——階段状になる

SNI神経障害性疼痛では様子が変わる。ピークは施灸 90分後 と遅く、温度の効き方も連続的でない。

表12-3 神経障害性疼痛(SNI)における機械逃避閾値(g、平均±SE、施灸90分後)[7]
90分後120分後
対照(無処置)5.20 ± 0.085.18 ± 0.08
SNI(灸なし)1.60 ± 0.031.51 ± 0.02
SNI+灸 37℃3.60 ± 0.262.93 ± 0.25
SNI+灸 42℃3.56 ± 0.262.80 ± 0.24
SNI+灸 47℃4.15 ± 0.153.69 ± 0.60
SNI+灸 52℃4.40 ± 0.043.66 ± 0.06

著者らの記述は明快である——「慢性神経障害性疼痛では、47℃ または 52℃ の灸が 37℃ および 42℃ より強い鎮痛効果を示した。ただし 47℃52℃ の間、および 37℃42℃ の間には有意差は示されなかった」[7]

12-4 二つのパターンを並べる

図12-1 温度と鎮痛効果の関係(原著の報告値)
37℃
6.52
42℃
8.05
47℃
10.11
52℃
14.37
炎症性疼痛(CFA)/熱逃避潜時(秒)/施灸30分後
37℃
3.60
42℃
3.56
47℃
4.15
52℃
4.40
神経障害性疼痛(SNI)/機械逃避閾値(g)/施灸90分後
模式図。棒の長さは各パネル内の最大値を100%とした相対表示であり、二つのパネルの間で長さを比較することはできない(単位も指標も異なる)。数値はすべて原著の報告値[7]。左は温度に応じて連続的に伸び、右は37℃と42℃、47℃と52℃がそれぞれ同水準に並ぶ。

12-5 この差が意味すること

炎症性疼痛では、末梢の炎症局所に灸の入力が直接働きかける経路が想定できる。第11章で見たATPの放出も、第10章で見た皮膚C線維の動員も、局所で完結しうる現象である。温度を上げれば入力が増え、入力が増えれば効果が増える——連続的な用量反応は、この単純な構図と整合する。

神経障害性疼痛では構図が違う。SNIモデルでは末梢神経そのものが切断されており、痛みを維持しているのは主に脊髄・上位中枢の変化である。ここで階段状の反応が現れたということは、ある閾値を超えた入力だけが、局所を越えた調節系を動かす可能性を示唆する。ただしこれは本書による解釈であり、著者らがこの機序を実証したわけではない。

臨床への翻訳

この所見(階層C)を臨床に翻訳するなら、次の一点にとどめるべきである。「もう少し熱くすれば、もう少し効くはずだ」という調整が有効なのは、痛みの型によって異なりうる。神経障害性の要素が強い症例で温度を微増させても、この動物実験の枠組みでは効果は変わらないことになる。なお、この研究が比較したのは 43℃46℃ であり、それより低い温度域は検討されていない。低温域で同じ差が出るかどうかは、本研究からは分からない。

ただし、これはマウスのST36における単回30分刺激の所見である。ヒトの臨床点・複数回施灸・数週間の経過に、この温度反応曲線がそのまま当てはまる保証はない。著者ら自身も「動物実験からのこの知見を確認するには臨床試験が必要である」と明記している[7]

13ヒトの脳で何が変わったか

動物実験と臨床アウトカムの間を埋めうる数少ないヒトのデータが、脳画像研究である。ただし本数は極端に少ない。灸を対象とした脳画像研究は、鍼のそれに比べて桁違いに乏しい。

13-1 まず研究数を確認する

Heら(2025年)は、疼痛病態に対する鍼灸の脳画像研究 37編14疾患)を対象に系統的な整理を行った。そのうち灸を治療として選択した研究はわずか2編であった[25]。著者らはこの不均衡を明示的な研究上の空白として指摘している。

賦活が報告された回数は、前頭葉 51回、辺縁葉 39回、頭頂葉 36回、側頭葉 25回、後頭葉 15回、島 13回、大脳基底核 11回、小脳 9回、視床 9回、中脳水道周囲灰白質 6回、脳幹 7回 であった[25]。著者らは、対象論文が 37編 と少なく疾患の範囲も限られていることを限界として挙げている[25]

13-2 内臓痛——直腸伸展刺激下のfMRI

Zhuら(2014年)は下痢型過敏性腸症候群(D-IBS)患者を対象に、直腸バルーン伸展下でのfMRIを施灸前後で比較した[8]。灸群 15名、対照群(偽灸)13名。ST25(天枢)・RN6(気海)・RN12(中脘)に附子餅を用いた隔物灸を週3回、2週を1クールとして2クール実施した。

表13-1 D-IBS患者における症状と脳賦活の変化[8]
指標灸群(n=15)対照群(n=13)
Birmingham IBS 症状スケール28.27 ± 6.64 → 9.00 ± 4.05(p<0.001)27.38 ± 3.95 → 21.46 ± 4.31(p<0.001)
100 ml 伸展時の痛み5.6 ± 0.63 → 4.0 ± 0.28(p<0.05)
治療後のPFC・ACC賦活賦活が消失賦活が持続

著者らは限界として、サンプルサイズが限られること、バロスタットによる圧制御ではなく用手的な容量制御を用いたこと、そしてPFCとACCのニューロン活動の具体的な性質は分かっていないことを挙げている[8]

13-3 膝の痛み——安静時fMRI

Tianら(2026年)は、変形性膝関節症患者を対象に、熱敏灸(HSM、30名)と非熱敏灸(NHSM、30名)を比較した[9]。左膝ST35(犢鼻)に 3 cm の距離で、赤外サーモグラフィにより 42〜48℃ を維持しながら 10分間、1日1回・10日間の施灸を行った。

表13-2 熱敏灸と非熱敏灸のVAS変化[9]
治療前治療後p
熱敏灸(HSM)7.34 ± 1.803.64 ± 0.58< 0.001
非熱敏灸(NHSM)6.28 ± 1.825.62 ± 0.740.031

群×時間の交互作用は F = 11.43、p = 0.001 であった[9]。fALFF(低周波振幅の割合)の変化とVAS変化の相関は、左側頭葉で r = 0.764(p < 0.01)、後頭葉で r = −0.595(p < 0.01)であり、NHSM群では有意な相関はみられなかった[9]

この研究の重大な限界

著者ら自身が第一の限界として挙げているのは、群分けが無作為化ではなく「熱敏感現象が出たかどうか」という主観的な表現型で行われた点である[9]。すなわち、HSM群とNHSM群は治療法が違うだけでなく、もともと灸に対する感受性が違う患者集団でありうる。ベースラインVASも 7.346.28 で異なる。この差を「熱敏灸のほうが効く」と読むことはできない。著者らはさらに、過去の施灸歴を系統的に収集しておらず期待効果が混入しうること、fALFF単独の解析では機序の解明に限界があることも挙げている[9]

臨床への翻訳

これらのヒト研究(階層B〜D)から言えるのは、灸の施術後に脳活動の変化が測定できるということまでである。どの領域の変化が鎮痛の原因で、どれが結果なのかは分離されていない。臨床的には、「脳が変わるから効く」という説明を患者にしてはならない。測定できたのは相関であって、因果ではない。

14灸が届いていない地点

第10〜13章で埋めた地点を並べると、埋まらなかった場所が輪郭を持って現れる。この章は、本書がもっとも誠実でなければならない章である。

14-1 埋まった地点と埋まらなかった地点

表14-1 痛みの経路の各地点における灸のデータ状況
地点灸に関する定量データ階層本書の該当章
末梢終末・局所化学環境あり(ATP、痛覚閾値)C第11章
一次求心線維の選択性あり(皮膚C線維/筋A線維)C第10章
脊髄後角の発火あり(既刊に掲載)C既刊 第10〜12章
上行路の選択性灸単独の定量データを見出せなかった
脳の活動変化あり(ただし研究2編)B〜D第13章
下行性疼痛調節系の駆動ヒトでの定量データを見出せなかった本章
ヒトのCPM/痛覚閾値の変化定量データを見出せなかった本章
臨床アウトカム豊富(ただし確実性は低〜非常に低)D第15〜18章

14-2 最大の空白——ヒトで痛覚閾値がどれだけ動くのか

本書の調査範囲では、灸がヒトの痛覚閾値(圧痛閾値・熱痛閾値)をどれだけ変化させるかを定量的感覚検査(QST)で測った査読済み研究に到達できなかった。同様に、灸がヒトでCPMを誘導するかを測った研究にも到達できなかった。

この空白の意味は小さくない。動物では、どの線維が動き(第10章)、局所で何が放出され(第11章)、痛みの型で反応がどう変わるか(第12章)まで分かっている。ヒトでは、痛みが減ったかどうか(第15〜18章)は大量に測られている。しかしその二つをつなぐ「ヒトの神経系で何が変わったか」の層が抜けている。

なぜ空白なのか

構造的な理由がある。QSTやCPMの測定は疼痛研究の専門設備と訓練を要し、鍼灸の臨床研究が多く行われている環境とは重ならない。加えて、灸は熱感が明白であるため被験者の盲検化が難しく(『灸と痛みの生理学②』第8章)、心理物理学的指標を用いる実験では期待効果の分離が困難になる。技術的に不可能なのではなく、研究のインセンティブ構造が向いていない。

14-3 この空白が臨床判断に与える影響

臨床への翻訳

下行性抑制系の駆動を灸の作用機序として患者に説明することは、現時点ではヒトでの裏づけを欠いた説明である。動物実験と鍼の研究からの類推にとどまる。説明するなら「動物実験ではこう示されているが、ヒトでは確かめられていない」と付す必要がある。教材としてこれを書かずに済ませることはできない。

演習

理解度チェック

本書の内容から8問。選択するとその場で正誤と解説が出ます。設問はすべて本文に記載した報告値・記述に対応しており、各問には該当章へのリンクを付けました。自己確認のための演習であり、資格や技能を証明するものではありません。

Q01 出典:第1章

痛みは本書でどのように分類されているか。

Q02 出典:第2章

侵害受容器と一次求心線維について、正しいのはどれか。

Q03 出典:第3章

末梢感作が起きている皮膚では、灸の熱はどうなるか。

Q04 出典:第4章

脊髄後角の役割はどれか。

Q05 出典:第6章

CPM(条件刺激性疼痛調節)とは何を評価するものか。

Q06 出典:第8章

灸の実測温度について、正しいのはどれか。

Q07 出典:第9章

「熱い灸」と「温かい灸」の関係について、本書の立場はどれか。

Q08 出典:第14章

本書が「灸が届いていない地点」という章を置いているのはなぜか。

解答ずみ 0 / 8
付録

引用文献

本書の記述はすべて以下の一次・二次資料に基づく。すべての文献に到達可能なURLを付した。非査読の資料は本文中でその旨を明記した。

  1. Nijs J, Malfliet A, Nishigami T. Nociplastic pain and central sensitization in patients with chronic pain conditions: a terminology update for clinicians. Braz J Phys Ther. 2023;27(3):100518. PMC10314229
  2. Dubin AE, Patapoutian A. Nociceptors: the sensors of the pain pathway. J Clin Invest. 2010;120(11):3760-3772. doi:10.1172/JCI42843
  3. Pereira-Silva R, Neto FL, Martins I. Diffuse Noxious Inhibitory Controls in Chronic Pain States: Insights from Pre-Clinical Studies. Int J Mol Sci. 2025;26(1):402. PMC11722076
  4. 和田恒彦, 全英美, 宮本俊和. 間接灸の温度特性. 日本東洋医学系物理療法学会誌. 2017;42(2):65-71. doi:10.32255/jjsop.42.2_65
  5. Chen L, Wang X, Zhang X, Wan H, Su Y, He W, Xie Y, Jing X. Electroacupuncture and Moxibustion-Like Stimulation Relieves Inflammatory Muscle Pain by Activating Local Distinct Layer Somatosensory Afferent Fibers. Front Neurosci. 2021;15:695152. PMC8319633
  6. Yin HY, Fan YP, Liu J, Li DT, Guo J, Yu SG. Purinergic ATP triggers moxibustion-induced local anti-nociceptive effect on inflammatory pain model. Purinergic Signal. 2023;19(1):5-12. PMC9984580
  7. Zhou W, Lei R, Zuo C, Yue Y, Luo Q, Zhang C, Lv P, Tang Y, Yin H, Yu S. Analgesic Effect of Moxibustion with Different Temperature on Inflammatory and Neuropathic Pain Mice: A Comparative Study. Evid Based Complement Alternat Med. 2017;2017:4373182. PMC5654268
  8. Zhu Y, Wu Z, Ma X, et al. Brain regions involved in moxibustion-induced analgesia in irritable bowel syndrome with diarrhea: a functional magnetic resonance imaging study. BMC Complement Altern Med. 2014;14:500. doi:10.1186/1472-6882-14-500 PMC4301658
  9. Tian L, Lian T, Xie H, Chen Y, Zhang J. Neuroregulatory mechanism of heat-sensitive moxibustion on the Dubi acupoint (ST 35) in patients with knee osteoarthritis: a resting-state functional magnetic resonance imaging study. Front Neurol. 2026;17:1699988. doi:10.3389/fneur.2026.1699988
  10. He L, Zhou R, Hou S, et al. Exploration of Key Brain Regions Involved in Acupuncture and Moxibustion Analgesia: An Imaging-Based Study. J Pain Res. 2025;18:2051-2067. PMC12009127

灸と痛みの生理学① 第1版 2026年8月17日発行
発行:合同会社YOMOGI BASE(鍼灸エビデンス・ライブラリ)

本書の位置づけ。本書は『灸と痛みの生理学』(第1版・全26章)を読み進めやすい分量に分けた二分冊の①であり、痛みの経路と灸の機序までを収める。疾患別の臨床エビデンス・効果量・安全性・未解決問題は②に収めた。

数値の出所方針。本書に記載した数値は、すべて一次文献に記載された報告値をそのまま引用したものである。編者が計算・推定・丸めた値は含まない。平均±SD と 平均±SE は原著の表記どおりに記した(統一のための書き換えは行っていない)。実測波形でない図には「模式図」と明記した。図12-1の棒の長さは各パネル内での相対表示であり、パネル間で比較することはできない。

調査範囲。英語・日本語・中国語圏を対象に20クエリの検索を行い、25件の一次・二次資料に到達した(2026年8月15日時点)。到達できなかった数値は記載していない。分冊にあたり、本書の本文が引用している文献のみを引用文献欄に掲げ、番号は原本の通し番号を保持した。

本書の限界。灸の鎮痛機序に関する知見の多くは動物実験に由来する。ヒトで得られている定量データは、皮膚温・脳活動・臨床アウトカムに限られ、痛覚閾値やCPMといった心理物理学的指標は本書の調査範囲では見出せなかった。本書の範囲で灸が届いていない地点は第14章に、原本全体の空白リストは『灸と痛みの生理学②』第11章に掲げた。

発行と利益相反。本書の発行者は合同会社YOMOGI BASEである。同社はよもぎ・お灸に関連する商品を扱う事業者であり、この利害関係を開示したうえで、本書では特定の商品・サービス・銘柄に一切言及せず、効能をうたわない編集方針を採っている。文献の選定・数値の引用・空白の明示は、事業上の利害と独立して行った。自社および自社関係者による発信は、査読の有無にかかわらず出典として用いない。

ご利用にあたって。本書は教育・研究目的の学術情報であり、個々の患者に対する診断・治療方針を示すものではない。臨床判断は、施術者自身の責任において、患者の状態と関連法規に基づいて行われたい。

改版履歴。2026年8月15日 原本『灸と痛みの生理学』(全26章)第1版発行。
2026年8月17日 二分冊化にともなう第1版。章番号を分冊内で振り直し、姉妹巻の章への参照はリンクで接続した。
2026年8月17日 出典照合版。全引用文献をNCBI(PubMed/PMC)・Crossref・J-STAGEの書誌レコードに当たって実在と書誌を確認し、著者名・巻号頁を補完した。孫引き・誤帰属・非査読ソースは一次文献に差し替え、差し替えた箇所は引用文献欄に注記した。編者が報告値を超えて述べる示唆は1冊2件までとする規約を序章に明記した。